L'home et la femme.
『男と女』
私がその存在を自覚してから、そして周囲にそれを告白して以来、なんだかジェダイは自己主張がとても激しくなったような気がする。お腹も大きくなってきた気がするし、動きも激しくなってきた。まるでそれまでは、ママに遠慮してきたかのように。
ところで、mixiのほうでもついに事実を公表し、いろんな人からいろんな言葉をかけてもらって、そのたびに胸がいっぱいだ。今はなかなかそのひとつひとつに、感謝の気持ちとか、私なりに思うことを返せずにいるけれど、ひとつひとつしっかりと大切に受け止めている。きっとジェダイも。
なかには、自らが抱えている問題や悩みなどを、私なんかに思い切って告白してくれた友人など、それを思うと胸が張り裂けそうになるし、今、直接言葉をかけることはなくても、私の抱えている現実を知った友人たちの間でも、きっとなんと言って言葉をかけるべきか、それを見つけられずにでもいろいろ思ってくれる人はいるのだろうとかを考える。
なかでも私の告白に対しては、女友達は割りとストレートな反応が返ってきたというのが実感。やっぱり女性、特に同世代の女性に関しては、既婚、未婚にかかわらず、この手の問題を考えない人はいないのだということを改めて実感。出産というイベントは、人生を左右するほどのものなのは確か。だけど、みんなそれぞれに今の人生、個の人生をどう生きるかという命題について、30代というのは本当はいちばん真剣に考えなければならない時期。出産によって人生が大きく変わることへの躊躇や不安、それと同時に「欲しい」と思ったときに「時既に遅し」ということになっているかもしれないという不安。これは女性特有の絶対的な悩みで、男の人には心からは理解が難しいことだろう。
今回、ちょっと思っているのは、そんな男性の間でも反応はさまざまで、その反応の差に関しては、現時点でも既にデータのマッピングはある程度できている。男性の気持ちまで代弁することはできないけれど、ある程度自分なりの考証ができた時点で、必要とあらばいずれここで思いの丈を語っていくかも。
思うに私は、男と女はやはりこの出産という時点で、永遠にわかりあえない生き物な気がするのだ。かつて私は「結婚を迫る女性、それを躊躇する男性」ということに関して「女は人に養ってもらわなくてもいいやって思っても、なかなか人を養っていこうとまでは思わないから、結婚に関しては男性のほうがヘビーだよね」ということを男友達に語っていた。そして「だからこそ、女性は男性より現実に社会的職業的差別を受けることが多いんだ。でも私はそれを逆手にとって、自分のしたいように生きていくよ」と、終身雇用とか家族の扶養とかの問題を一切気にすることなく、自分の夢をかなえることだけを考えて、フランスへも旅立った。
だけど私には大事な認識がかけていた。出産という点に関しては、女はどうしたって逃げることができない。産むのは女。極論として、男は逃げることだってできるけど、女にはその選択肢はないのだということを。
先日、テレビで相変わらず日本の少子化問題について特集が組まれていた。社会が抱える今世紀の重大な問題としながらも、テレビでアナウンサーの無機質な声で読み上げられる、出生率が云々とかデータ中心の原稿をどれだけ人々が現実味を帯びて考えられるのだろうか。日本の少子化の問題は=「団塊ジュニア世代」として取り上げられていて、まさにそれは私たちの世代のことを言っている。バブル崩壊以降、就職超氷河期を経て、多くのフリーターを生み出し、結婚や出産に経済的不安を覚えている(そしてそれが経済格差という問題とも密接に絡んでいる)というレポートについては、一応評価ができると思った。でも正直言って、その問題を声高に叫んでいる人たちって、きっと社会的にはこの厳しい時代を勝ち抜いたエリートと呼ばれる人たち。なんだか、そのレポートはあまりに客観的すぎて、少なくともこの問題を解決するカギとなる張本人が、その現実を受け止め、意識していくのにはあまりにも現実感の漂わないニュースだと思った。だって、正直、社会からドロップアウトした人たちって、そもそも社会になんて参加するつもりはないんだもの。というか、そんな余裕ないし。
かく言う私も、つい最近までは「どーせ、年金もらえないんでしょ?」とか言って「だったら民間の生命保険なりで、自分の面倒は自分で見るからその選択の自由をさせて」ってほざいていた口。現に、こないだまで自分の住民票が在仏中に失効していることでさえもしらなくて、保健とかもようやく復帰したような人間。それが今、「やっぱり福祉のお世話にならざるを得ないのかも」だなんて、虫のいいことを言うようになっているのだから、人間、そこまで自分の身に切迫しないと、社会のこと、他人様のことなんて考えてられるかというのが、本音だと思う。
日本を離れて、フランス、それから他の国の人と接するようになって、日本の社会、社会保障制度などとの違いを知った。これからはそういう外部との比較の上でも、自分なりにいろいろ考えていきたいと思う。
そして、永遠にわかりあうことの難しい男と女。彼らが少しでも歩み寄れるようにも考えていかなければと思う。
いずれにしても、今欠けているのは「対話」な気がする。インターネットが発達して、人々は容易に国境ですら越えられるようになったはずなのに、そこにはなにか人々の根本的な「空虚さ」がブラックホールのように拡大していっているような気がしてならないのだ。
私がその存在を自覚してから、そして周囲にそれを告白して以来、なんだかジェダイは自己主張がとても激しくなったような気がする。お腹も大きくなってきた気がするし、動きも激しくなってきた。まるでそれまでは、ママに遠慮してきたかのように。
ところで、mixiのほうでもついに事実を公表し、いろんな人からいろんな言葉をかけてもらって、そのたびに胸がいっぱいだ。今はなかなかそのひとつひとつに、感謝の気持ちとか、私なりに思うことを返せずにいるけれど、ひとつひとつしっかりと大切に受け止めている。きっとジェダイも。
なかには、自らが抱えている問題や悩みなどを、私なんかに思い切って告白してくれた友人など、それを思うと胸が張り裂けそうになるし、今、直接言葉をかけることはなくても、私の抱えている現実を知った友人たちの間でも、きっとなんと言って言葉をかけるべきか、それを見つけられずにでもいろいろ思ってくれる人はいるのだろうとかを考える。
なかでも私の告白に対しては、女友達は割りとストレートな反応が返ってきたというのが実感。やっぱり女性、特に同世代の女性に関しては、既婚、未婚にかかわらず、この手の問題を考えない人はいないのだということを改めて実感。出産というイベントは、人生を左右するほどのものなのは確か。だけど、みんなそれぞれに今の人生、個の人生をどう生きるかという命題について、30代というのは本当はいちばん真剣に考えなければならない時期。出産によって人生が大きく変わることへの躊躇や不安、それと同時に「欲しい」と思ったときに「時既に遅し」ということになっているかもしれないという不安。これは女性特有の絶対的な悩みで、男の人には心からは理解が難しいことだろう。
今回、ちょっと思っているのは、そんな男性の間でも反応はさまざまで、その反応の差に関しては、現時点でも既にデータのマッピングはある程度できている。男性の気持ちまで代弁することはできないけれど、ある程度自分なりの考証ができた時点で、必要とあらばいずれここで思いの丈を語っていくかも。
思うに私は、男と女はやはりこの出産という時点で、永遠にわかりあえない生き物な気がするのだ。かつて私は「結婚を迫る女性、それを躊躇する男性」ということに関して「女は人に養ってもらわなくてもいいやって思っても、なかなか人を養っていこうとまでは思わないから、結婚に関しては男性のほうがヘビーだよね」ということを男友達に語っていた。そして「だからこそ、女性は男性より現実に社会的職業的差別を受けることが多いんだ。でも私はそれを逆手にとって、自分のしたいように生きていくよ」と、終身雇用とか家族の扶養とかの問題を一切気にすることなく、自分の夢をかなえることだけを考えて、フランスへも旅立った。
だけど私には大事な認識がかけていた。出産という点に関しては、女はどうしたって逃げることができない。産むのは女。極論として、男は逃げることだってできるけど、女にはその選択肢はないのだということを。
先日、テレビで相変わらず日本の少子化問題について特集が組まれていた。社会が抱える今世紀の重大な問題としながらも、テレビでアナウンサーの無機質な声で読み上げられる、出生率が云々とかデータ中心の原稿をどれだけ人々が現実味を帯びて考えられるのだろうか。日本の少子化の問題は=「団塊ジュニア世代」として取り上げられていて、まさにそれは私たちの世代のことを言っている。バブル崩壊以降、就職超氷河期を経て、多くのフリーターを生み出し、結婚や出産に経済的不安を覚えている(そしてそれが経済格差という問題とも密接に絡んでいる)というレポートについては、一応評価ができると思った。でも正直言って、その問題を声高に叫んでいる人たちって、きっと社会的にはこの厳しい時代を勝ち抜いたエリートと呼ばれる人たち。なんだか、そのレポートはあまりに客観的すぎて、少なくともこの問題を解決するカギとなる張本人が、その現実を受け止め、意識していくのにはあまりにも現実感の漂わないニュースだと思った。だって、正直、社会からドロップアウトした人たちって、そもそも社会になんて参加するつもりはないんだもの。というか、そんな余裕ないし。
かく言う私も、つい最近までは「どーせ、年金もらえないんでしょ?」とか言って「だったら民間の生命保険なりで、自分の面倒は自分で見るからその選択の自由をさせて」ってほざいていた口。現に、こないだまで自分の住民票が在仏中に失効していることでさえもしらなくて、保健とかもようやく復帰したような人間。それが今、「やっぱり福祉のお世話にならざるを得ないのかも」だなんて、虫のいいことを言うようになっているのだから、人間、そこまで自分の身に切迫しないと、社会のこと、他人様のことなんて考えてられるかというのが、本音だと思う。
日本を離れて、フランス、それから他の国の人と接するようになって、日本の社会、社会保障制度などとの違いを知った。これからはそういう外部との比較の上でも、自分なりにいろいろ考えていきたいと思う。
そして、永遠にわかりあうことの難しい男と女。彼らが少しでも歩み寄れるようにも考えていかなければと思う。
いずれにしても、今欠けているのは「対話」な気がする。インターネットが発達して、人々は容易に国境ですら越えられるようになったはずなのに、そこにはなにか人々の根本的な「空虚さ」がブラックホールのように拡大していっているような気がしてならないのだ。
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