Tu étais toujours avec moi.
「あなたはいつも私と一緒だったんだ」
最初に体調の異変を感じたのは1月末。
ある夜、突然、吐き気がして、以来、1週間ほど食欲がなくなった。今までもちょっと鬱になったりすると、食欲を一時的に失うということはよくあることだったけれど、今思うと、このときはそれまでとはちょっと違う気がした。というのも、食べることを想像するだけでもう気持ちが悪くなってブルーになっていたから。それでも生命維持のために、バナナとかリンゴとかをコーラで胃に流し込んだりして、あとはそれまでは食材にそんなにこだわることはなかったけれど、BIO製品とか体によさげなものを買ってきたりして「まずは気持ち」から……とばかりに、徐々に食欲を回復させていった。
2月に入って、家に友達が立て続いて2組泊まりに来た。それでもずっと鬱状態が続いていて、それはずっと年末に彼が居なくなったことがいちばんの原因だと思っていた。友達が出かけようと誘ってくれても、全然気が向かない。パリで観光を満喫する友達を見送って、家に居る間はほとんど一日中ゴロゴロして過ごしていた。
前からわかっていたことだけれど、年末に彼がフランスを旅立ってしまったことは、想像以上に精神的なダメージだった。それまで頑張っていたいろいろなことも、その日、彼を空港に見送ったときを境に、まるで糸がプツンと切れてしまったようにガクっときた。空港で彼に後ろ髪を引かせないようにと、見送るそのときまでは、努めて気丈を振舞った。でも、彼の姿が見えなくなって、リールから彼を車で送りにやってきた、彼の親友に「ça va?」と声を掛けられたそのときに、その場で泣き崩れてしまった。それからRERでパリ市内の自宅には、どんな気持ちで戻ってきたのかはほとんど覚えていない。その足取りでさえも。
年が明けてからも、彼以外のことでも追い討ちをかけられるかのように、いろんな不運とかちょっとストレスのたまる出来事が続いていた。日に日に「パリ症候群」の症状を発症しているような気がしだして、月末には日本への帰国を決心。それからは、思い出づくりをしようと旅行の計画を立てたり、そして最後の最後は自分にとってのフランスにおける“故郷”で過ごし、親しい友達と心置きなく最後のフランス生活を楽しもうと前向きに考えた。
2月の下旬から3月の頭にかけて、「最後のバカンス」とばかりに、積極的にあちこちを動いた。イタリア・ローマ、スイス・ベルン、ジュネーブ、フランス南東部の島、île d'yeu。そのころから、頻繁に鼻血を出すようになり、またその量がちょっとふつうではなく、異変を少し感じていた。そして3月の半ばのある日、自宅で1時間半もの間、鼻血が止まらず、またその尋常ではない出血量に不安を覚えたのだけれど、その日を境に鼻血が出ることがなくなった。
3月の下旬から、日本から友達が遊びに来て、一緒にチュニジアへ旅行。ハプニングがいろいろとあり、ハードな旅行だったけれど、サハラ砂漠で念願のラクダ乗りに挑戦したり、スター・ウォーズのロケ地となった場所や、ヨーロッパとはまったく違う世界にとても感動してパリに戻った。
その後はすぐにパリを引き払う準備。とても慌しくパリの友達と別れて、故郷・リールへ。3週間弱、リールでは私の叔父のように接してくれた知人の新聞記者さんの家に居候させてもらって、最後まで心行くなく友達との別れを名残惜しんだ。
その間の身体の異変としては、とにかく毎日飲めや食えやの生活で、痩せの大食いの私もちょっと限界を感じていた。それでも日本に帰ったら易々と食べられなくなるだろうしと無理して食べたものの、「やっぱりフランス人の胃にはついていけない」と、最後は悲鳴を上げて、大好きなワインや地元のビールをお断りすることも。
そして4月23日、約2年過ごしたその地への思いを馳せながら、シャルルドゴールからスイス・チューリッヒ経由で日本へ旅立った。成田からちょっと都内で2、3日寄り道をしてから、名古屋の実家に戻るつもりをしていたけれど、さすがに総量が自分の体重以上の荷物を抱えたり、しばらく続いた居候生活、そして祖国へ戻った安堵感などで、一度に疲れが押し寄せた。スーツケースを成田からそのまま実家へ送って、結局その足で国内線に乗り、名古屋へ向かった。
実家に戻るや否や、発熱。2日間完全に寝込む。それから時差ボケや疲れ、生活環境の変化で精神的にも少し鬱状態になって、GW期間、大した外出をすることもなく、実家に引きこもって、前から引き受けていた原稿執筆の仕事にかかる以外は、寝てばかり。いい加減、ちゃんと立て直さなくちゃ……と、寝てばかりの娘に呆れた母からも軽く叱責を受け、自分自身もその意思と自覚をしていたのだけれど、どういうわけか毎日本当に眠くて仕方がなかった。そして、なんとなく酸素が不足していて、とても深い呼吸で眠っていたような気がする。
そして、GWが明け、即上京。まずは、友達の家に居候させてもらって家探しを開始。しかし長く続く居候生活にさすがに精神的な疲れ切っていたようで、わずか3軒目のない件にしてあっさり契約。いつもなら10軒ぐらいは見てからではないと決めない性格なのに、さすがに今回は相当疲れているんだな、それに随分体力が落ちたもんだなと感じていた。
そしてその週末には新居へ入居。やっと一人になれて、ほっとした。やっぱり居候生活は、気を遣うというだけではなくて、いつもどこかで落ち着かなくて、あとは食生活とかも自分のペースではなくなるので、長く続くとやはりそれはそれで辛くなる。
日本に帰ったぐらいから、明らかに太ったと自覚。今までの洋服だと、お腹周りが窮屈になって、一人になったら生活を改善させて、元に戻さなければと決意していた。そうしてだんだんと生活は落ち着きはじめ、手足は順調に元の体型に戻ってきた。でも、お腹だけは相変わらず引っ込まない。それでも今までも胃下垂のせいで、食べてしばらくは妊婦のようにぽっこりお腹が出たりしていたので、今回はそれも度が越してるんだろうなぁと思っていた。でもお腹が出ているせいで、食事後に結構苦しくなったりして、なんだか身体のキレも悪いし、本格的にダイエットしないとなぁと思っていた。
それから今月に入ったあたりから、再び身体の異変。というか、ちょっと変わったことが起きた。お腹の内側がボコボコと動き出した。それでもまぁ昔から、たくさん食べたりすると、胃とか腸とかがぜん動するのを感じていたので、その一種だろうと信じて疑わなかった。でもそれが大して食べてもいないのに、しかも頻繁に激しくなるにつれ、それまで可能性は否定できないけれども、強い疑いは持っていなかった、ある可能性を意識し出した。
それでも自分のなかでは、このなかなかへっこまないお腹が、なにか婦人科系の病気ではないかと、そちらのほうを疑っていた。そしてテレビなどでその手の内容をやっているのを目にしては、恐怖で直視できなくてチャンネルを変えたりしていた。例えば卵巣がんとか子宮筋腫とか、そういう可能性をとても疑っていた。もしそうだった場合の自分の余命のこととか、それに仮に手術して直ったとしても、子供が産めない体になってしまうのではないかとか、いろいろ不安で、その現実を直視できる覚悟が決まるまでは不安で病院にも行けなかったのだ。そして今まで大病を患ったことがない自分に対して、そのうち自然治癒していくだろうという期待も。
でもそうやって、病院へ行きちゃんと診断してもらうことを先延ばしにし続けた結果、先週、仕事中に意識を失ってついに倒れてしまった。周囲の人が救急車を呼ぼうとしているところで意識を回復し、とりあえずその場、その日はなんとかやり過ごしたけれど、さすがにこれはもう限界だとその日ようやく意を決して、週末に病院の予約を入れる。
病院はとりあえず産婦人科にした。どっちにしても、婦人科系に関係があるだろうという自覚があったから。でも前日、それまで強くは疑ってこなかった妊娠について、ウェブでいろいろ調べてみると、これまでの経過と照らし合わせてみると、今までの体調の異変がほとんど説明のつくほどにいろいろと合致していて、その段階で「妊娠」の可能性が自分のなかで高まる。
それでもあえて、検査薬で自己検査をすることもせずにそのまま産婦人科へ飛び込んだ。受付の人には、私のあまりの無知さ、無防備さにかなり怪訝な顔をされながらも(それはどちらかと言うと軽蔑にも近かった)。もちろん、女性として自分でもそれは認めるけれど、実は自分がここまでそれの可能性を疑わなかったのは、ひょっとしたら自分は不妊症ではないか? と思っていたふしがあったのだ。だからこそ、婦人科系の病気を心配していて、それによって「子供が産めない」という決定的な診断が下されることが怖かったのだ。
というのも、近年の私はごく親しい友人の間には「早く子供が欲しい」という気持ちを語っていた。それこそ「結婚はしなくてもいいけど、子供だけは欲しい」と冗談半分で言っていたくらい。私の周りには、なぜか「子供は要らない」という人が多いけれど、私自身は女性として生まれてきたからには、やはりその経験をしてみて、それがどんなものかを知りたいという気持ちがとても強かった。そして、結婚には年齢制限はないけれど、出産には絶対的なリミットがあるので、30代になってからは特にそれを強く意識するようになった。焦るという気持ちではないのだけれど、ごく自然の願望として強くはなっていたと思う。
検査の結果は「陽性」。そこには既にそれ相応の覚悟を持って来ていたので、結果に対してはとても冷静だった。でも既に、その日の時点で27週6日目と伝えられ、9月には子供が産まれてくるというのはちょっと動揺した。そして、本来は検査とか、それまでに段階的に受けていくすべてを一度にやらなければならないことや、これから出産までにやらなければならないことなどを一気に説明されて、正直とても混乱した。
でもとても不思議なことに、戸惑いながらもそれらを案外受け止めていく自分。それまで病院が苦手と言って、会社の健康診断の採血検査とかを避けたくて受けなかったり、まるで子供だった自分なのに、先生の前でいろんな要求をすんなり抵抗を感じずに受け入れていく自分。今思えば、それはもうそんな短い時間にも、それは自分のためではなくて、生まれてくる子供のため、母としての自分へと成長していたのかもしれない。
そして最後に、超音波で自分の子供の姿を見せてもらった。とても激しく脈打つ心臓の動きを確認したときの気持ちはなんとも言えなかった。先生は次々に「これはなんだと思います?」と質問を浴びせた。はっきり確認できたのは、耳と手のかたち。残念ながら、顔は背中側を向いていて確認できなかったのだけれど、「さすが私と彼の子! 生まれる前から天邪鬼だ!」と密かに思った。
大きな喜びと不安。今の正直な気持ちだ。もらってきた超音波の写真をひとり眺めたり、そして胎動を感じるときは本当に至福の瞬間。でもこれからのことを考えるとやはりとても不安。自分のことはいいとしても、既に生まれる前からふつうの人とは違う人生を背負わせてしまうわが子に対する気持ち。
両親へは帰ってすぐに報告した。彼らにどうやっても迷惑をかけてしまうことでとても胸は痛んだけれど、この事実はもう私だけの問題ではないので、やはりなによりも先に伝えるべきことだから。
母はやっぱり「これからどうするの?」って最初は攻めるような口調だった。でも「でももしかしたら、自分の命を落とすような重大な病気かもしれないと、自分としては本当に不安だったのに、私だって戸惑っているし、お母さん、今、そんなふうに言わないで」と泣きながら訴える私に、母はすぐに「お母さんは大丈夫だから! それよりあなたが落ち着きなさいね!!」と、すぐに私の立場を理解してくれた。
夕方、母から話を聞いた父からも電話があった。私としては両親がどんな反応をするかもとても心配していたのだけれど、父はとても冷静でおそらくパニックに陥っているであろう娘を心配し、とりあえずこれだけはちゃんとするようにということと、これから両親として、応援しては行くということをはっきり言ってくれた。
家庭によっては勘当される家だってあるかもしれないのに、父や母に本当に感謝しなければならない。そして彼らの私への愛情を31歳にして再度知ることにもなった。
今朝また、父と母それぞれ別に電話があった。後でわかったけれど、父は日曜だというのに、仕事先からだったようだ。定年を前にして、そろそろ穏やかな老後の生活を考え始めていたであろう父に対しては、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。母に対しては、母としての強さや優しさを思い知った。というか、社会人になって父に対する尊敬は高まったけれど、今、自分が母になることになって、母の偉大さを悟った。
母は言った。
「お母さんも昨日は動揺して眠れなかったんだけれど、あれからいろいろ考えてみたんだけれど、帰国前、あれだけあなたがあちこち移動したりして、華奢な身体にあんなに重い荷物を背負ったり、かなり無理をしていただろうのに、こんな言い方をするのはよくないけれど、よく流産しなかったなって思うのよ。だからやっぱりその子はそれほどまでにこの世に生を受けたいってことなのよ! きっとその子は国際的な子になるわよ」
そんなふうに言ってもらえて本当に嬉しかった。
正直、自分もここまで週数が進んで妊娠がわかって、これまで全然妊婦としての健康に気を遣ってこなかったので、お腹の子の健康状態がとても心配だった。でも昨日の段階で先生の話では、母子ともに特に問題はないし、子供の大きさが小さかったり大きかったりというのもないと言われ、本当に安堵したとともに、わが子の生命力に驚いた。
というか、本当にダメダメなママでゴメンね。
私が倒れたとき、それはきっと「いい加減、僕(私)の存在に気づいてよ~!」って、キミの必死の訴えだったんだね。
今日からはご飯を食べるときも、一人だという気がしなかった。自分よりも子供のために食べているという感覚で、出来上がったご飯を前に「おいしそうだね~」と話しかけたりしていた。
妊娠がはっきりわかったとき、「これからはもう一人じゃないんだ」と思った。
人一倍淋しがり屋な私に、神様はこの子を与えてくれた。
と同時に、神様は私に「人間としてもっと成長しなさい」と言っているんだと思う。
最初に体調の異変を感じたのは1月末。
ある夜、突然、吐き気がして、以来、1週間ほど食欲がなくなった。今までもちょっと鬱になったりすると、食欲を一時的に失うということはよくあることだったけれど、今思うと、このときはそれまでとはちょっと違う気がした。というのも、食べることを想像するだけでもう気持ちが悪くなってブルーになっていたから。それでも生命維持のために、バナナとかリンゴとかをコーラで胃に流し込んだりして、あとはそれまでは食材にそんなにこだわることはなかったけれど、BIO製品とか体によさげなものを買ってきたりして「まずは気持ち」から……とばかりに、徐々に食欲を回復させていった。
2月に入って、家に友達が立て続いて2組泊まりに来た。それでもずっと鬱状態が続いていて、それはずっと年末に彼が居なくなったことがいちばんの原因だと思っていた。友達が出かけようと誘ってくれても、全然気が向かない。パリで観光を満喫する友達を見送って、家に居る間はほとんど一日中ゴロゴロして過ごしていた。
前からわかっていたことだけれど、年末に彼がフランスを旅立ってしまったことは、想像以上に精神的なダメージだった。それまで頑張っていたいろいろなことも、その日、彼を空港に見送ったときを境に、まるで糸がプツンと切れてしまったようにガクっときた。空港で彼に後ろ髪を引かせないようにと、見送るそのときまでは、努めて気丈を振舞った。でも、彼の姿が見えなくなって、リールから彼を車で送りにやってきた、彼の親友に「ça va?」と声を掛けられたそのときに、その場で泣き崩れてしまった。それからRERでパリ市内の自宅には、どんな気持ちで戻ってきたのかはほとんど覚えていない。その足取りでさえも。
年が明けてからも、彼以外のことでも追い討ちをかけられるかのように、いろんな不運とかちょっとストレスのたまる出来事が続いていた。日に日に「パリ症候群」の症状を発症しているような気がしだして、月末には日本への帰国を決心。それからは、思い出づくりをしようと旅行の計画を立てたり、そして最後の最後は自分にとってのフランスにおける“故郷”で過ごし、親しい友達と心置きなく最後のフランス生活を楽しもうと前向きに考えた。
2月の下旬から3月の頭にかけて、「最後のバカンス」とばかりに、積極的にあちこちを動いた。イタリア・ローマ、スイス・ベルン、ジュネーブ、フランス南東部の島、île d'yeu。そのころから、頻繁に鼻血を出すようになり、またその量がちょっとふつうではなく、異変を少し感じていた。そして3月の半ばのある日、自宅で1時間半もの間、鼻血が止まらず、またその尋常ではない出血量に不安を覚えたのだけれど、その日を境に鼻血が出ることがなくなった。
3月の下旬から、日本から友達が遊びに来て、一緒にチュニジアへ旅行。ハプニングがいろいろとあり、ハードな旅行だったけれど、サハラ砂漠で念願のラクダ乗りに挑戦したり、スター・ウォーズのロケ地となった場所や、ヨーロッパとはまったく違う世界にとても感動してパリに戻った。
その後はすぐにパリを引き払う準備。とても慌しくパリの友達と別れて、故郷・リールへ。3週間弱、リールでは私の叔父のように接してくれた知人の新聞記者さんの家に居候させてもらって、最後まで心行くなく友達との別れを名残惜しんだ。
その間の身体の異変としては、とにかく毎日飲めや食えやの生活で、痩せの大食いの私もちょっと限界を感じていた。それでも日本に帰ったら易々と食べられなくなるだろうしと無理して食べたものの、「やっぱりフランス人の胃にはついていけない」と、最後は悲鳴を上げて、大好きなワインや地元のビールをお断りすることも。
そして4月23日、約2年過ごしたその地への思いを馳せながら、シャルルドゴールからスイス・チューリッヒ経由で日本へ旅立った。成田からちょっと都内で2、3日寄り道をしてから、名古屋の実家に戻るつもりをしていたけれど、さすがに総量が自分の体重以上の荷物を抱えたり、しばらく続いた居候生活、そして祖国へ戻った安堵感などで、一度に疲れが押し寄せた。スーツケースを成田からそのまま実家へ送って、結局その足で国内線に乗り、名古屋へ向かった。
実家に戻るや否や、発熱。2日間完全に寝込む。それから時差ボケや疲れ、生活環境の変化で精神的にも少し鬱状態になって、GW期間、大した外出をすることもなく、実家に引きこもって、前から引き受けていた原稿執筆の仕事にかかる以外は、寝てばかり。いい加減、ちゃんと立て直さなくちゃ……と、寝てばかりの娘に呆れた母からも軽く叱責を受け、自分自身もその意思と自覚をしていたのだけれど、どういうわけか毎日本当に眠くて仕方がなかった。そして、なんとなく酸素が不足していて、とても深い呼吸で眠っていたような気がする。
そして、GWが明け、即上京。まずは、友達の家に居候させてもらって家探しを開始。しかし長く続く居候生活にさすがに精神的な疲れ切っていたようで、わずか3軒目のない件にしてあっさり契約。いつもなら10軒ぐらいは見てからではないと決めない性格なのに、さすがに今回は相当疲れているんだな、それに随分体力が落ちたもんだなと感じていた。
そしてその週末には新居へ入居。やっと一人になれて、ほっとした。やっぱり居候生活は、気を遣うというだけではなくて、いつもどこかで落ち着かなくて、あとは食生活とかも自分のペースではなくなるので、長く続くとやはりそれはそれで辛くなる。
日本に帰ったぐらいから、明らかに太ったと自覚。今までの洋服だと、お腹周りが窮屈になって、一人になったら生活を改善させて、元に戻さなければと決意していた。そうしてだんだんと生活は落ち着きはじめ、手足は順調に元の体型に戻ってきた。でも、お腹だけは相変わらず引っ込まない。それでも今までも胃下垂のせいで、食べてしばらくは妊婦のようにぽっこりお腹が出たりしていたので、今回はそれも度が越してるんだろうなぁと思っていた。でもお腹が出ているせいで、食事後に結構苦しくなったりして、なんだか身体のキレも悪いし、本格的にダイエットしないとなぁと思っていた。
それから今月に入ったあたりから、再び身体の異変。というか、ちょっと変わったことが起きた。お腹の内側がボコボコと動き出した。それでもまぁ昔から、たくさん食べたりすると、胃とか腸とかがぜん動するのを感じていたので、その一種だろうと信じて疑わなかった。でもそれが大して食べてもいないのに、しかも頻繁に激しくなるにつれ、それまで可能性は否定できないけれども、強い疑いは持っていなかった、ある可能性を意識し出した。
それでも自分のなかでは、このなかなかへっこまないお腹が、なにか婦人科系の病気ではないかと、そちらのほうを疑っていた。そしてテレビなどでその手の内容をやっているのを目にしては、恐怖で直視できなくてチャンネルを変えたりしていた。例えば卵巣がんとか子宮筋腫とか、そういう可能性をとても疑っていた。もしそうだった場合の自分の余命のこととか、それに仮に手術して直ったとしても、子供が産めない体になってしまうのではないかとか、いろいろ不安で、その現実を直視できる覚悟が決まるまでは不安で病院にも行けなかったのだ。そして今まで大病を患ったことがない自分に対して、そのうち自然治癒していくだろうという期待も。
でもそうやって、病院へ行きちゃんと診断してもらうことを先延ばしにし続けた結果、先週、仕事中に意識を失ってついに倒れてしまった。周囲の人が救急車を呼ぼうとしているところで意識を回復し、とりあえずその場、その日はなんとかやり過ごしたけれど、さすがにこれはもう限界だとその日ようやく意を決して、週末に病院の予約を入れる。
病院はとりあえず産婦人科にした。どっちにしても、婦人科系に関係があるだろうという自覚があったから。でも前日、それまで強くは疑ってこなかった妊娠について、ウェブでいろいろ調べてみると、これまでの経過と照らし合わせてみると、今までの体調の異変がほとんど説明のつくほどにいろいろと合致していて、その段階で「妊娠」の可能性が自分のなかで高まる。
それでもあえて、検査薬で自己検査をすることもせずにそのまま産婦人科へ飛び込んだ。受付の人には、私のあまりの無知さ、無防備さにかなり怪訝な顔をされながらも(それはどちらかと言うと軽蔑にも近かった)。もちろん、女性として自分でもそれは認めるけれど、実は自分がここまでそれの可能性を疑わなかったのは、ひょっとしたら自分は不妊症ではないか? と思っていたふしがあったのだ。だからこそ、婦人科系の病気を心配していて、それによって「子供が産めない」という決定的な診断が下されることが怖かったのだ。
というのも、近年の私はごく親しい友人の間には「早く子供が欲しい」という気持ちを語っていた。それこそ「結婚はしなくてもいいけど、子供だけは欲しい」と冗談半分で言っていたくらい。私の周りには、なぜか「子供は要らない」という人が多いけれど、私自身は女性として生まれてきたからには、やはりその経験をしてみて、それがどんなものかを知りたいという気持ちがとても強かった。そして、結婚には年齢制限はないけれど、出産には絶対的なリミットがあるので、30代になってからは特にそれを強く意識するようになった。焦るという気持ちではないのだけれど、ごく自然の願望として強くはなっていたと思う。
検査の結果は「陽性」。そこには既にそれ相応の覚悟を持って来ていたので、結果に対してはとても冷静だった。でも既に、その日の時点で27週6日目と伝えられ、9月には子供が産まれてくるというのはちょっと動揺した。そして、本来は検査とか、それまでに段階的に受けていくすべてを一度にやらなければならないことや、これから出産までにやらなければならないことなどを一気に説明されて、正直とても混乱した。
でもとても不思議なことに、戸惑いながらもそれらを案外受け止めていく自分。それまで病院が苦手と言って、会社の健康診断の採血検査とかを避けたくて受けなかったり、まるで子供だった自分なのに、先生の前でいろんな要求をすんなり抵抗を感じずに受け入れていく自分。今思えば、それはもうそんな短い時間にも、それは自分のためではなくて、生まれてくる子供のため、母としての自分へと成長していたのかもしれない。
そして最後に、超音波で自分の子供の姿を見せてもらった。とても激しく脈打つ心臓の動きを確認したときの気持ちはなんとも言えなかった。先生は次々に「これはなんだと思います?」と質問を浴びせた。はっきり確認できたのは、耳と手のかたち。残念ながら、顔は背中側を向いていて確認できなかったのだけれど、「さすが私と彼の子! 生まれる前から天邪鬼だ!」と密かに思った。
大きな喜びと不安。今の正直な気持ちだ。もらってきた超音波の写真をひとり眺めたり、そして胎動を感じるときは本当に至福の瞬間。でもこれからのことを考えるとやはりとても不安。自分のことはいいとしても、既に生まれる前からふつうの人とは違う人生を背負わせてしまうわが子に対する気持ち。
両親へは帰ってすぐに報告した。彼らにどうやっても迷惑をかけてしまうことでとても胸は痛んだけれど、この事実はもう私だけの問題ではないので、やはりなによりも先に伝えるべきことだから。
母はやっぱり「これからどうするの?」って最初は攻めるような口調だった。でも「でももしかしたら、自分の命を落とすような重大な病気かもしれないと、自分としては本当に不安だったのに、私だって戸惑っているし、お母さん、今、そんなふうに言わないで」と泣きながら訴える私に、母はすぐに「お母さんは大丈夫だから! それよりあなたが落ち着きなさいね!!」と、すぐに私の立場を理解してくれた。
夕方、母から話を聞いた父からも電話があった。私としては両親がどんな反応をするかもとても心配していたのだけれど、父はとても冷静でおそらくパニックに陥っているであろう娘を心配し、とりあえずこれだけはちゃんとするようにということと、これから両親として、応援しては行くということをはっきり言ってくれた。
家庭によっては勘当される家だってあるかもしれないのに、父や母に本当に感謝しなければならない。そして彼らの私への愛情を31歳にして再度知ることにもなった。
今朝また、父と母それぞれ別に電話があった。後でわかったけれど、父は日曜だというのに、仕事先からだったようだ。定年を前にして、そろそろ穏やかな老後の生活を考え始めていたであろう父に対しては、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。母に対しては、母としての強さや優しさを思い知った。というか、社会人になって父に対する尊敬は高まったけれど、今、自分が母になることになって、母の偉大さを悟った。
母は言った。
「お母さんも昨日は動揺して眠れなかったんだけれど、あれからいろいろ考えてみたんだけれど、帰国前、あれだけあなたがあちこち移動したりして、華奢な身体にあんなに重い荷物を背負ったり、かなり無理をしていただろうのに、こんな言い方をするのはよくないけれど、よく流産しなかったなって思うのよ。だからやっぱりその子はそれほどまでにこの世に生を受けたいってことなのよ! きっとその子は国際的な子になるわよ」
そんなふうに言ってもらえて本当に嬉しかった。
正直、自分もここまで週数が進んで妊娠がわかって、これまで全然妊婦としての健康に気を遣ってこなかったので、お腹の子の健康状態がとても心配だった。でも昨日の段階で先生の話では、母子ともに特に問題はないし、子供の大きさが小さかったり大きかったりというのもないと言われ、本当に安堵したとともに、わが子の生命力に驚いた。
というか、本当にダメダメなママでゴメンね。
私が倒れたとき、それはきっと「いい加減、僕(私)の存在に気づいてよ~!」って、キミの必死の訴えだったんだね。
今日からはご飯を食べるときも、一人だという気がしなかった。自分よりも子供のために食べているという感覚で、出来上がったご飯を前に「おいしそうだね~」と話しかけたりしていた。
妊娠がはっきりわかったとき、「これからはもう一人じゃないんだ」と思った。
人一倍淋しがり屋な私に、神様はこの子を与えてくれた。
と同時に、神様は私に「人間としてもっと成長しなさい」と言っているんだと思う。
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