lundi, juin 26, 2006

Une vie qui partirait ou viendrait.

「失うかもしれないひとつの命 新たに得るもうひとつの命」

mixiで体調不良を告白して以来、その後の結果をまだ報告できないでいるのは、いまだ彼と連絡が取れないせい。もちろん、個別に連絡があったりして直接聞かれたりした人には、必要に応じて既に報告はぼちぼちとはし始めているのだが、まだオープンにできないでいる。公表することはなんの問題もないのだけれど、それはただ順番、ちょっとした気持ちの問題。

それでもmixiの足跡とかを見ると、たくさんの人が心配してくれているのだなぁと思って、報告できないことを申し訳なく思う気持ちでいっぱいだ。そして伝えたい感謝の気持ちや今、自ら感じている本音など、募るばかりだ。それらを大事にしたくって、これから自分の強い意志を毎度ちゃんと確認もしていきたくって、こうしたかたちで別のところで記録を残していくことに決めた。「いまだから話せるんだけど」って話、どんどん積もって後からだと説明するのがより複雑になってしまったり、面倒になってしまったりして、それがまた思わぬ誤解を生んで、悲しく辛い思いをしたり、また時として人を傷つけてしまうことを、これまでの人生で十分知っているから。

今朝の私は、まずはやっぱり目が覚めて考えるのはお腹の子供のこと。我が子は寝坊助なのか、割と午前中は静かだから、目覚めたときに胎動を感じず、不安にさせられる。でもそのくせ、夜中は元気で凄まじく動く。今は妊娠28週目で、病院への検診は既に2週間おきに受けなければならないということだったけど、私としては本当に二日おきにでも診てもらいたいのが正直な気持ちだ。

ところで私が妊娠していることをまだ知らない友達や知人たちには、きっと私自身が重大な病気を抱えているかもしれないと、心配されているだろう。本当に申し訳ない気持ち。実際、自分だってそう思っていたし。既に報告を済ませた人で現在の私の姿を知っている人からは、「その身体じゃ誰もが9月に出産するような姿とは思わないよ」と言われている。それくらいお腹の大きさは目立たない。昨夜テレビでダイエットの特集がやっていて、出ていた人のお腹を見て「明らかに私より妊婦じゃん」って思ったぐらい。人の身体って、裸の状態でなかなかマジマジ見比べることってないからね。確かに私のお腹は前に突き出ていて、横から見ると妊婦っぽいけれど、腸下垂で下っ腹が出ていると言われれば、人は納得するぐらい。正面から見たら、まだちゃんと腰がくびれているほど。そんなんだけど、産婦人科の先生によると、お腹の赤ちゃんの大きさは標準で、今のところ早産とかそういう可能性はないらしい。なんだか、随分と狭いマンションに住まわせてしまっているようで(カプセルホテル並み?)、早く出してあげたいような気も。

ところで、妊娠しているかもしれないと思って、一部の人にその可能性を話したとき、やっぱり人それぞれさまざまな反応だった。でも自分がいちばん考えたのは、もしかしたら自分の命を落とすことになるかもしれない、そして命は助かったとしてもこの先子供が産めない体になってしまうかもしれないとまで考えていたことを思うと、どちらが幸福なのかということだった。そして、失うかもしれない命とこれから得るもうひとつの命の尊さを考えたとき、それはもちろんどんな困難も受け止めていかねばならないし、なにより生まれてくる子供を苦しめてしまうかもしれないけれど、やっぱりかけがえのないものを授かったことのほうが何倍も尊いことだと思えたのだ。

実際、一時は自分の死を覚悟していて、ある尼僧の「人は死ぬために生まれてくる。だからこそ、死ぬそのときまで精一杯に生きるんだ」という言葉で、自分が生まれてきた意味や、これまでの人生の意義を受け止めよう、結論づけようと思っていた。

でもその言葉を借用すれば、これから生まれてくる我が子もまた死ぬために生まれてくるんだと思うと、とても複雑な気持ちになってしまう。

命という意味の深さは、本当に計り知れない。

「生きることの意味、そして死ぬことの答え」

思春期のころにずっと考えていたテーマに、これから再度対峙していく。
そして自分の子供にそれを教えていかなければならないのだ。自分自身でもまだ答えが見つからないその偉大なるテーマに。なんという重責。